同調圧力とコメントについて

こんにちは。今日は最近耳にするようになった「同調圧力」とやらについて思ったことを書きたいと思います。

ワクチン打つの?打たないの?

新型コロナウイルスの蔓延でかなり深刻になってきていますよね。そんな中で打開策のような雰囲気で登場してきたのが「ワクチン」です。インフルエンザワクチンやその他ウイルスや疫病にもワクチンが作られています。それと同じように、感染拡大を止めるべく登場しているのですが、これまた2極の論争が繰り広げられているように思うんです。

「ワクチン打った?」と。打ってないと答えると「やばいんじゃない?」的な雰囲気にもなったりと。逆に打ってない人はそれなりの理由があるわけで、コロナ当初に巷で言われていた「正しく恐る」とはほど遠い気がしなくもない。

みんなが打ってるし、無料だし、なんだか打たないといけない雰囲気だし。と。すごく自然と勝手にですが、「同調○力」みたいな何かに作用されているんじゃないかなと。

きっとその結論なんかはどちらも正しくて、「持ち家派」と「賃貸派」なんかもそうですよね。「持ち家派」は資産になるとか、同じ家賃を払うなら家をもったほうがいい。だったり。「賃貸派」も日本の家はよっぽどの立地じゃないと資産にならない。とか、移動が必要だったり近所の人がハズレクジだったら一生終わるとか。それはもういろいろで。どちらの意見も正しい。

怖いのはどの意見も「たしかに〜」ってなるし、本当にそうだと感じる。明らかに「それは違うだろ」なんて思わない。(もしかしたら思う人もいるかもだけど)だからこそ、その意見は正しく聞こえて(正しいんだけども)納得させられる。

「考え」を否定するのは良くない

そこで分かれた二つの意見が存在するわけでもちろん人一人には答えはひとつになります。なのでどちらかを選ぶわけですが、そこを否定してはいけないと思うんですよね。

持ち家・賃貸のところも、考え方は人それぞれで、前提となる条件が違いすぎるし、仮に仕事の移動も多くて今は賃貸派だけれども、老後はお金を貯めてうんぜん万円をあの世には持っていけないのでいい家を建てて老後を優雅に過ごしたい。なんかはすごく格好いいなーなんて思うし、この人の答えは時期とともに両方の選択をしていることになります。

今はそう思っていなくても、いつかもしかしたら逆側のことになるかもしれない。

「だから」ではないですが、反対意見を自分の意見と違うからと批判するのは良くないなと思ったりしています。

YouTubeのコメント欄を見てて

YouTubeやTikTokとかの動画サービスとかを見ているとすごく思うんです。結構バズっている動画とかおもしろいなーと思うエンタメ的なものだったり破天荒な行動の動画何万回も再生されている動画のコメントって見たことありませんか?(私はめっちゃ見てしまいます。)

その動画が面白くて、気がつけば見入ってしまっている。そして次に見てしまうのが「コメント欄」です。コメント欄で何をみるかというと、みんなのリアクションです。この動画に対してみんなはどんなふうに思ってるんだろう。って。

そこでやっぱり嬉しいコメントは自分と同じ意見のコメントです。「やっぱり、そう思います〜?」的に心でつぶやいてしまいます。これって同調を逆に求めて行っているんですよね。自ら、他の人の意見と同じかどうかを確認しにいっている。

さいごに

同調圧力ではないんですけど、私を含む人間って「同調」って大事なんだなーって自らの行動で気付かされました。はあ。けっきょく誰かにどう見られているかを意識しるから、何かに対しての意見が気になるわけで自分の意見の前に相手がどんなリアクションをしているか?が気になってしまう。

これはこれで「相手に合わせる」っていうぶんでは良いのかもしれませんが、なかなか考えもんです。「同調する」ことが目的やゴールになってしまいそうで、「自分の意見」という一番大事なことが抜け落ちてしまっています。「相手に合わせる」の進化系は「相手の気持ちがわかる」になるんだと思うんですが、進化しないうちは表面上は合わせていたとしても、頭の中ではちゃんと考えを持つことが大事だと思います。

というわけで、今日も考えて行動していきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ともまる