スティーブ・ジョブズから読み解くスティーブ・ウォズニアックという天才

アップル社というとスティーブ・ジョブズが有名です。

ですが、一緒に創業し本当の意味で製品を作成したと言っても過言ではない人物こそ

スティーブ・ウォズニアックなのです。

今日はそんな天才ウォズニアックについてお伝えします。

ウォズニアックの父親も天才?!

ウォズニアックはカリフォルニア州で生まれました。

父親もまた、職業はエンジニアでした。

日本では田中角栄のロッキード事件で有名になりましたが

その航空機メーカーのロッキード社で

ミサイルの誘導システムを開発する研究をしていました。

そして、そのエンジニアリングにこそ価値を感じ

この社会を一歩前に進められるものだと考えていました。

そんな天才のそばで育てられたウォズニアックは

周りからも浮いてしまいます。

そして友達ができにくく悩んでいたときに父親はこう言います。

「好きなことは、コツコツやっていればいい。

そのうち必ず理解者は現れる。

でも、どんなに自分が人より多くのことを知っていても

でしゃばっちゃいけない。」

こう言って育てられた、ウォズニアックとジョブズが出会ったのは

運命なのか?と思わせられます。

幼少時代

そんな父親のそばで育っただけに環境も恵まれていました。

エンジニアだった父親のもとに週末必ず遊びに行った。

仕事場ではいろんな電子部品があり

その電子部品をつなげたりして遊んでいたそうです。

そしてそんなウォズニアックが疑問に感じることは

全て父親が解決してくれました。

でもわかったふりは絶対にダメだと

正直に生きることが大事と教えられました。

ウォズニアックのすごさ

6歳でアマチュア無線の免許を取り

10歳でトランジスタラジオも作りました。

そして、インターホンシステムも作り上げました。

さらには、アマチュア無線用の受信機と送信機も作成。

14歳のときには2進法で計算する計算機を作り

対象年齢が高校生までだったにもかかわらず最優秀賞を取るほど。

もはやレベルが違いますね。

少年院?そんな天才でも起きた悲劇

そんなウォズニアックが少年院に入るということがありました。

理由はやはり周りに馴染めなかったから。

そして孤独になりいたずらを考えました。

そのいたずらがこれがまたレベルが違う・・・。

なんと時限爆弾!!!もちろん実際には爆発しません。

ダイナマイト風に見立てたものとメトロノームの音を加工して作成したのです。

そして少年院に。

少年院の中でもワクワクが止まらない。

扇風機の敗戦と鉄格子をつないで感電させるようにしたりと

電気の力が楽しく何かを作りたくてウズウズしていたと語っています。

コンピューターとの出会い

そんな中で意外とコンピューターとの出会いは高校生最後の年でした。

アルバイト先で本物のコンピューターに触れ

自分でも新しい部品で作るコンピューターの設計をはじめます。

その時から今のアップルの考えがありました。

その考えとは

「少ない部品でできるだけシンプルに」です。

そうして、HP社のインターンシップとして働きながら

試行錯誤しているときに

スティーブ・ジョブズと出会ったのでした。

そんな二人が出会い、話をすれば話が合わないはずがない。

ウォズニアックの父親のいう理解者とはスティーブ・ジョブズのことだったのです。

二人の天才の成果物とは?

出会った二人がよくやっていたこととは何なのか?

きっと素晴らしいものに違いないと思っていましたが

意外と真逆だったのです。

それは、いたずら!!

基本はジョブズがいたずらの案を考え

ウォズニアックがそれを形にする。

例えば今では当たり前ですが

遠隔操作のできるテレビリモコン。

誰かがテレビをみているときに、さっと別のチャンネルに変える。

何と子供らしい発想でしょうか。

ただ、二人はいたずらがしたいのではなく

自由でいられることが楽しかったのだと語っています。

史上初!デジタル式ブルーボックスの発明!

詳しいことはわからないけれど

どうも周波数がカギで

長距離を無料で電話できる発明をしました。

そして最初にかけた相手は

ロスにいる叔父さんでした。

うまく叔父さんには繋がらなかったようですが

長距離電話はつながりました。

そして、いたずら精神はここでも健在です。

次にかけたのは何と、ローマ法王です。

ローマ法王と直接は話せなかったようですが

かけたのは事実のようです。さすがイタズラ好きですね。

そんなブルーボックスを100台ほど作って全部完売したが

危ない人たちに絡まれ、ブルーボックスからは手を引いたのでした。

新しいゲーム機を4日で完成!!

スティーブ・ジョブズが自分探しの旅から戻ってきて

アタリというゲーム会社にいました。

そのアタリという会社が発売していた

アーケードゲームの「PONG」というゲームが大ヒットしていましたが

一人用のPONGを作りたいと社長から投げかけられました。

結果、ウォズニアックが4日で作り上げますがその報酬を受け取ったのですが

当初は折半という話だったのですが、実はスティーブ・ジョブズの方が少し多く受け取っていました。

そのことをウォズニアックは怒ることなく

お金が必要だったら言ってくれれば自分のもあげたのにと答えました。

それくらい優しく器の大きい方だと感じ取れます。

マイクロプロセッサーとの出会い

1975年3月5日 メロンパーク

コンピュータ好きの集まるパーティーが開かれた。

そこで披露されたのがマイクロプロセッサーだった。

これを見てウォズニアックが閃いた。

そのパーティーから逃げるように飛び出して

そのままコンピュータの制作に取り掛かった。

1975年6月29日 「アップルⅠ」の完成

それをスティーブ・ジョブズに見せると

ジョブズはさらにいろんな発明をします。

それもできるだけシンプルに。

ウォズニアックがエンジニアでいたい

いろんなことがありましたが

アップルⅠの完成などもあり

会社を起こし社会に影響を与えようと考えていきます。

言うなれば、ジョブズは販売やマーケティング

ウォズニアックはエンジニアとして発明を。

二人の特徴が分かれていたからこそアップルは成長できたのだと思います。

ウォズニアックが基盤を発明して作り

ジョブズがそれをブラッシュアップし、より価値の高いものにする。

この化学反応があったからこそみんなから愛される商品になったのだと思います。

ですが、ウォズニアックは会社に対して抵抗がありました。

それはエンジニアとしていられなくなるのではないか?

そうです。ウォズニアックはエンジニアが大好きでそれだけをしていたい。

これまでHP社と二足の草鞋で歩んできましたが

ジョブズからエンジニアとしてだけで良いと言ってくれたときに

初めてスッと肩の荷がおりたようでした。

生粋のエンジニアなのですね。

まとめ

ウォズニアックはとにかく天才です。

できないものはないのではないかと思うくらい何でも作ってしまいます。

そしてその長所と反対に苦手なことは対人関係でした。

そこをジョブズがうまくカバーして成り立っていました。

生粋の天才エンジニアとはスティーブ・ウォズニアックのことです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ともまる